活字書体をつかう

Blog版『活字書体の花舞台』/『活字書体の夢芝居』/『活字書体の星桟敷』

正富汪洋『世界の民衆に』(新潮社、1925年)より

出身高校の「校歌」をきにいっています。山田耕筰の作曲で、まるで歌曲のようです。同音がならび、どこで息つぎをどこでしてよいのかわからず、生徒にとってはまことに歌いにくい旋律ですが、そこがたまりません。
作詩は正富汪洋。汪洋は当時の詩壇の頂点にありました。その汪洋から高校の先生あての書簡がのこされていて、それはとても興味ぶかいものです。たとえば、つぎの一節。
  ともども学びの
  奥へわけ入るおもしろさ
この「おもしろさ」という語が「卑俗にひびく」という高校の先生の意見にたいし、古典などの用例をひいて丁寧に説明されています。ほかにも「養ふ」「ゆたかに」などの語があげられています。
高校の先生の校歌へのこだわりと、正富汪洋の奥深さがつたわってきます。

正富汪洋の詩は、膨大な数にのぼります。五七調から、短い詩、長編の詩、散文詩、民謡調の詩まで、まことに多彩です。詩集『世界の民衆に』(新潮社、1925年)の序では、つぎのように述べています。

    序
 世界は餘りに晦い。我々は新愛國主義に覺醒し、世界改造の火を點じ、文明の大窓を穿つべきである。
 私は世界の民衆に訴へて、世界の一新を計りたい思想を抱持してゐる。これはその序曲とも謂うべきものである。
この集を、「世界の民衆に」「はるかぜの肌ざはり」の二に區分した。前者には、上述の思想的背景のある詩を收め、後者には概して、春の季候に關したものを容れた。一人でも多く讀んで呉れることを希望する。この集の製本が成つたら一部分の譯詩を附して先づ H.Wells 氏に献じたい。
  一九二四年冬                         著者

この詩集では、前半の世界改造の志を訴えた詩と、後半の叙情的な詩とが同居しています。晩年には、平易で簡素な詩もみられます。
おさななじみの竹久夢二ほどにはしられていませんが、その実績は夢二にひけをとらないものです。夢二と遊んだ岡山県瀬戸内市国司ヶ丘に、汪洋の詩碑がたてられています。

正富汪洋の晩年の著作に、『明治の青春 与謝野鉄幹をめぐる女性群』(北辰堂、1955年)と、『 晶子の恋と死ー実説『みだれ髪』』(山王書房、1967年)があるようです。汪洋と与謝野鉄幹、晶子とはあさからぬ関係があるようです。
鳳(与謝野)晶子が、先妻をおしのけるかたちで与謝野鉄幹と結婚したはなしはよくしられていますが、その先妻である林滝野と結婚したのが汪洋なのです。夫人が3歳年長でした。
この結婚には父親が猛反対し、汪洋は勘当されてしまいます。汪洋はまだ学生だったので、夫人が郵便局につとめて生計をたてたそうです。また夫人の影響で文学仲間とも交わるようになたっということです。

  父母の許るも否むも恋の炎問ふひまなしと云ひてし君

夫人に先立たれたときの追悼の歌「妻死にぬ」十首のうちのひとつです。

2010年7月14日7月15日7月16日の記事をまとめました。