活字書体をつかう

Blog版『活字書体の花舞台』/『活字書体の夢芝居』/『活字書体の星桟敷』

TYPOJANCHI図録

昨年夏に行われたTYPOJANCHIの図録が送られてきた。英語と韓国語のみで、日本語も中国語もない。そこで、日本語をここに記載することにした。

Profile
今田欣一:活字書体設計者。1954年岡山県和気町生まれ。1973年岡山県立和気閑谷高校普通科卒業。1977年九州産業大学芸術学部デザイン学科修了。同年株式会社写研に入社し、数多くの書体制作に携わる。そのかたわら石井賞創作タイプフェイスコンテストに応募し、第1位を2度、第2位を2度受賞。1996年株式会社写研を退社し、1997年有限会社今田欣一デザイン室を設立して現在に至る。
主要著作:『Vignette05 挑戦的和字の復刻』朗文堂、2002年。『Vignette11 和漢欧書体混植への提案』朗文堂、2003年。『Vignette14 和字—限りなき前進』朗文堂、2005年。『タイプフェイスデザイン事始』ブッキング、2000年。『タイプフェイスデザイン探訪』ブッキング、2000年。『タイプフェイスデザイン漫遊』ブッキング、2000年。

Design Philosophy
活字書体の源泉は書物の歴史にあると思う。活字書体設計者の役割は、その背後に隠されている精神の継承と造形の再生に、誠実に取り組むことにあるのではないだろうか。
写本の時代、刊本の時代、金属活字の時代──それぞれの時代に数えきれないほどの書物が誕生し、そこにはたくさんの文字と書体が残されている。それらをあたらしい時代の息吹によってよみがえらせ、実際に使用できるようにして、次の世代にバトンタッチすることが使命だと考えている。
和字書体は、平安時代から現代までの日本の書写と印刷の歴史にはぐくまれた正統的な36書体をとりあげて再生した。これを葛飾北斎の『富嶽三十六景』から、「和字書体三十六景」となづけた。これをベースにして、ウエイトのバリエーションなどを展開していきたい。
漢字書体は、秦王朝の時代から現代までの中国の碑文や刊本、活字本から再生した24書体である。これを中国・歴代王朝の正史『二十四史』にちなんで、「漢字書体二十四史」となづけた。しかしながら、漢字書体の制作には、多くの時間と労力を要する。現在完成しているのは4書体だが、ひきつづき制作に取り組んでいきたい。
欧字書体にはすでに豊かな活字書体群があるが、和字書体、漢字書体と組み合わせて使用するためには同じように再生する必要がある。そこで、やはりヨーロッパの書物に取材して、これから12書体を制作することにした。これを西洋占星術の『黄道十二宮』から「欧字書体十二宮」とした。
日本における現代のタイポグラフィの深化と前進にもっとも有効な手段は、漢字書体と和字書体と欧字書体が三位一体となって奏でるよき調和であると信じている。


Caption(図録には掲載されていませんが、参考までに…)

漢字書体

龍爪 Longzhua
宋代の四川地方の刊本は、中唐の顔真卿(七〇九—七八五)書風による字様です。顔真卿は、中国の唐代の政治家で、書家としても知られています。書は剛直な性格があふれた新風を拓き、「顔体」と称されます。『周礼』は中国の儒教教典のひとつですが、蜀(現在の四川省)の刊本は蜀大字本として名高いもので、「龍爪」とよばれる筆法を特徴としています。孝宗(一一六二—八八)のころの刊行と思われます。わずか二巻の残本ですが、同種の本はほかに知られていません。

金陵 Jinling
明代の木版印刷では、宋代の臨安書棚本の覆刻からはじまり、筆画の直線化がすすんで表情のかたい書体があらわれました。明朝後期の万暦年間(一五七三—一六一九)から刊本の数量が急速に増加し、製作の分業化が促進されました。隋朝以来の国家経営の学校としての国子監で出版したもののうち、南京国子監が出版した刊本を南監本と呼びます。南監本の『南斉書』は、中国の二十一史のうちの南斉の正史で、現存するのは全五九巻です。

蛍雪 Yingxue
清代の木版印刷では、武英殿刊本をしのぐ品質とされる地方官庁による官刻本がありました。曹寅(一六五八—一七一二)が主管した揚州詩局で刊行されたもので、代表的なものが康煕帝の命により編纂された唐詩全集である『全唐詩』(一七〇七年)です。さらには嘉慶帝の敕命により董誥らが編纂した唐・五代散文の総集である『全唐文』が、一八一八年(嘉慶一九)に揚州詩局から刊行されています。この『全唐文』の字様は均一に統一された表情であり、活字書体としての機能をもっています。

和字書体

かもめ Kamome
印書局は明治五年九月に創設されて、はじめは太政官正院の中におかれていました。明治七年に工部省製作寮所管の活版所(勧工寮が明治六年一一月に廃止されて製作寮の所管に移る)を移管併合して、明治八年に大蔵省紙幣寮に属することになります。一八七七年(明治一〇)年四月、大蔵省紙幣局となったときに、紙幣局活版部で『活版見本』が発行されています。ここにみられるひらがな、とりわけ五号ひらがなが『内閣印刷局七十年史』の本文で用いられた書体の源流だと思われます。したがって『内閣印刷局七十年史』の本文に用いられた和字書体は、印刷局の伝統的な書風です。

きざはし Kizahashi
株式会社東京築地活版製造所の初代社長・平野富二が一八八九年(明治二二)に社長を辞任し、本木昌造の長男・本木小太郎が社長心得になります。しかしながら本木小太郎は病弱だったので、曲田成が三代目社長に就任しました。そのころ発行された香月薫平著『長崎地名考』は、上巻・下巻・附録の三冊からなっています。一八九三年(明治二六)一一月に長崎の虎與號商店から発行されています。『長崎地名考』の本文に用いられた和字書体は、東京築地活版製造所前期の伝統的な書風です。

まどか Madoka
青山安吉(一八六五—一九二六)は一九〇九年(明治四二)五月、青山進行堂活版製造所の創業二〇年を記念して『富多無可思』を発行します。この約三〇〇ページにもおよぶ線装(袋とじ)の記念誌は、活字の見本帳であり、印刷機械などの営業目録でもあります。『富多無可思』の青山安吉による「自叙」は四号楷書体活字、竹村塘舟による「跋」は四号明朝体活字で組まれていますが和字書体は共通のものです。『富多無可思』の「自叙」と「跋」に用いられた和字書体は、東京築地活版製造所後期の書風を源流として継承したものです。