活字書体をつかう

Blog版『活字書体の花舞台』/『活字書体の夢芝居』/『活字書体の星桟敷』

琴棋洞日暦[随筆編]

水のはなし7

水道水は「水道法」によって水質基準が定められている。ミネラルウォーター類は「食品衛生法」で成分規格と製造基準が定められている。つまり適用される法律が違っているということのようだ。水道水でも容器入り飲料水として販売されているものはミネラルウ…

水のはなし6

坂戸、鶴ヶ島水通企業団では年二回「さかつる水だより」という広報紙を発行している。2016年秋冬号の「さかつるちゃんの、教えて!水道教室」のコーナーは、水道水とミネラルウォーターがテーマだ。その記事の中で、水通企業団が昨年のイベントで実施した「…

水のはなし5

ツアーで外国に行ったとき、生水は飲まないようにと注意される。食事の際には、ミネラルウォーターを注文しなければならなかった。水を買うのかとそのときは不思議に思ったが、わが国でもコンビニエンスストアやスーパーマーケットでミネラルウォーターが売…

水のはなし4

ある日のこと、実家近くの原野でボーリングが始まった。こんなところで温泉など湧くことはないだろうと思っていたが、案の定、数年すぎても温泉が湧いたという話は聞かなかった。ところが、執念というか、とうとう鉱泉(温度が低かったようだ)を掘り当てた…

水のはなし3

水道は地元の人たちが共同で引いた簡易水道だった。川のほとりに小さな施設があったのをおぼろげに覚えている。簡易水道とはいえ、一般の上水道と同じ基準の水質が保たれていたのはいうまでもない。 いつのころだったか、その簡易水道にかわって、町営の上水…

水のはなし2

私が子供の頃、実家の台所には井戸があった。農家の台所は土間であった。水道ができる前までは、飲み水として使っていたのだろう。水道ができてからは、なにかしら生活用水として使っていたと思う。 井戸のある台所はわりと好きだった。手動式のポンプでくみ…

水のはなし1

よく行く「山田うどん」や「ぎょうざの満洲」など、大衆的な食堂ではテーブルごとに氷の入ったポットが置いてあって、セルフサービスで自由におかわりができる。ファミリーレストランの「ジョイフル」でも水だけなら無料である。とにかく水を多く飲んでいる。…

米のはなし9

実家でむかし所有していた田地では、今も変わらず稲作が行なわれている。三〇年ほど前に農地改革が行なわれて、広い道が付けられ、田地は長方形に整理されて農業機械が使いやすくなっている。かつては兼業農家で細々と作っていたが、ある専業農家の方が農地…

米のはなし8

澁谷梨絵さんは「お米マイスター」とともに、「ごはんソムリエ」でもあるという。外食産業向けに米飯を提供する事業者によって設立された団体、日本炊飯協会が認定する資格が「ごはんソムリエ」である。 日本炊飯協会ホームページによれば、「お米の産地や銘…

米のはなし7

TBSラジオの「生活は踊る」で、「お米マイスター」の澁谷梨絵さんが出演されていた。「お米マイスター」とは何か気になったので調べてみた。全国のお米屋さんによって組織された団体、日本米穀小売商業組合連合会が認定しているのが「お米マイスター」と…

米のはなし6

かくいう私は、普段は近くのスーパーマーケットで、「あきたこまち」や「ひとめぼれ」など全国各地の「ブランド米」のなかから、特売になっているものをそのときの気分で買ってきている。味の違いも区別がつかないし、それほど気にしたことはない。 実家でも…

米のはなし5

当時わが家(実家)で作っていたのは「朝日米」だったと思う。あとで知ったことだが、「朝日米といえば岡山」といわれるほど、岡山県を代表する米だったそうだ。よく知られている銘柄の「コシヒカリ」「ササニシキ」「あきたこまち」なども、品種改良をたど…

米のはなし4

いくらいい米をつくっても炊かなければ食べられない。子供の頃はまだかまどで炊いていたが、電気炊飯器ができて、ずいぶん楽になったことだろう。もっとも当初は欠陥品も多く商品テストで不合格になるものがあったと、NHKの朝のドラマでやっていた。 きょ…

米のはなし3

高校の夏休みには部活の合宿があった。高校の中に金剛寮という宿泊施設があって、そこで一週間ほど生活を共にするのだ。そのときには各自が米を持って行くことが決まりだった。田舎のことなので、ほとんどの家庭で米を作っていたのだ。 米は作るものであって…

米のはなし2

稲刈りの時期に「農繁期休暇」があったかどうか忘れてしまったが、稲刈りには駆り出されていたのは確かだ。鎌を使って手作業で刈り取るので、子供でも腰が痛くなったという記憶がある。 稲刈りだけではなく、一年中手伝いをしていた。子供の頃には農耕牛を飼…

米のはなし1

小学生の頃、「農繁期休暇」といって田植えの時期には学校が休みになった。休みといっても農作業の手伝いをするのである。 田植えのときには、家族はもちろんのこと親戚がそろって一列に並んで手作業で植えていた。ときにはアルバイトの人も来ていたように思…

『世界の民衆に』

正富汪洋の詩は、膨大な数にのぼる。五七調から、短い詩、長編の詩、散文詩、民謡調の詩まで、まことに多彩である。詩集『世界の民衆に』(新潮社、1924年)の序では、つぎのように述べている。 序 世界は餘りに晦い。我々は新愛國主義に覺醒し、世界改造の…

明治の青春

正富汪洋の晩年の著作に、『明治の青春 与謝野鉄幹をめぐる女性群』(北辰堂、1955年)と、『 晶子の恋と死ー実説『みだれ髪』』(山王書房、1967年)があるようだ。汪洋と与謝野鉄幹、晶子とはあさからぬ関係があるようである。 鳳(与謝野)晶子が、先妻を…

校歌のこと

出身高校の校歌を私は気にいっている。山田耕筰の作曲で、まるで歌曲のようだ。同音がならび、どこで息つぎをどこでしてよいのかわからず、生徒にとってはまことに歌いにくい旋律だが、そこがたまらない。 作詩は正富汪洋。汪洋は当時の詩壇の頂点にありまし…

楯之舎塾跡

岡山県美咲町(旧柵原町)飯岡(ゆうか)に「平賀元義楯之舎塾跡」というちいさな石碑と説明版、歌碑がならんで、ひっそりとたてられている。山風に河風そひて 飯岡の坂田の御田は 涼しかりけり 飯岡の南側に赤磐市(旧吉井町)周匝(すさい)があり、どちら…

墨汁一滴

正岡子規の『墨汁一滴』には、つぎのようにかかれている。この文章によって、それまではほとんど知られていなかった平賀元義が、歌人としてたかい評価を受けるようになったということである。 徳川時代のありとある歌人を一堂に集め試みにこの歌人に向ひて、…

平賀元義の歌碑

わたしの出身高校の校門のすぐ左手に、平賀元義の歌碑があるみたいだ。高校3年のあいだ、毎日校門をとおっていながら、まったくその歌碑にきづかずにいた。たしかそのあたりで卒業アルバムの写真なども撮影されたと思うのだが、この歌碑のことはだれもおぼ…

鎌倉幕府跡(後)

鎌倉駅から、鶴岡八幡宮へのびる参道が若宮大路である。鶴岡八幡宮に向かって右手が宇都宮辻子幕府跡・若宮大路幕府跡だ。鶴岡八幡宮に参拝したことはあるが、幕府跡には気がつかなかった。それもそのはず、今はひっそりとそれぞれの石碑があるだけである。 …

鎌倉幕府跡(前)

何回か鎌倉を訪れたことがあるが、だいたい鶴岡八幡宮と建長寺がメインだった。鎌倉というと鶴岡八幡宮と建長寺がまず思い浮かぶ。でも、鎌倉幕府、古都鎌倉というぐらいですから、宮殿や城にあたる場所はないのだろうか。 ひとつは鶴岡八幡宮の東側に位置す…